最高裁判所第三小法廷 昭和24年(オ)187号 判決 1952年2月19日
主文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人の負担とする。
理由
上告代理人の上告理由は末尾別紙記載のとおりである。
論旨第一点に対する判断。
被上告人が原判決判示の如く上告人に水をかけたとか、ほうきでたたいた等の行為をしたことは誠にはしたないことであり、穏当をかくものではあるが右様のことをするにいたつたのは上告人が被上告人と婚姻中であるにかかわらず婚姻外の清水笑子と情交関係を結び同女を姙娠せしめたことが原因となつたことは明らかであり、いわば上告人自ら種子をまいたものであるし、原審が認定した一切の事実について判断すると被上告人の判示行為は情において宥恕すべきものがあり、未だ旧民法第八一三条五号に規定する「同居に堪えざる虐待又は重大なる侮辱」に当らないと解するを相当とする、従つて右と同趣旨である原判決は正当であつて論旨は理由がない。
同第二乃至第四点に対する判断。
論旨では本件は新民法七七〇条一項五号にいう婚姻関係を継続し難い重大な事由ある場合に該当するというけれども、原審の認定した事実によれば、婚姻関係を継続し難いのは上告人が妻たる被上告人を差し置いて他に情婦を有するからである。上告人さえ情婦との関係を解消し、よき夫として被上告人のもとに帰り来るならば、何時でも夫婦関係は円満に継続し得べき筈である。即ち上告人の意思如何にかかることであつて、かくの如きは未だ以て前記法条にいう「婚姻を継続し難い重大な事由」に該当するものということは出来ない。(論旨では被上告人の行き過ぎ行為を云為するけれども、原審の認定によれば、被上告人の行き過ぎは全く嫉妬の為めであるから、嫉妬の原因さえ消滅すればそれも直ちに無くなるものと見ることが出来る)上告人は上告人の感情は既に上告人の意思を以てしても、如何ともすることが出来ないものであるというかも知れないけれども、それも所詮は上告人の我侭である。結局上告人が勝手に情婦を持ち、その為め最早被上告人とは同棲出来ないから、これを追い出すということに帰着するのであつて、もしかかる請求が是認されるならば、被上告人は全く俗にいう踏んだり蹴たりである。法はかくの如き不徳義勝手気侭を許すものではない。道徳を守り、不徳義を許さないことが法の最重要な職分である。総て法はこの趣旨において解釈されなければならない。論旨では上告人の情婦の地位を云為するけれども、同人の不幸は自ら招けるものといわなければならない。妻ある男と通じてその妻を追い出し、自ら取つて代らんとするが如きは始めから間違つて居る。或は男に欺された同情すべきものであるかも知れないけれども少なくとも過失は免れない。その為め正当の妻たる被上告人を犠牲にすることは許されない。戦後に多く見られる男女関係の余りの無軌道は患うべきものがある。本訴の如き請求が法の認める処なりとして当裁判所において是認されるならば右の無軌道に拍車をかける結果を招致する虞が多分にある。論旨では裁判は実益が無ければならないというが、本訴の如き請求が猥りに許されるならば実益どころか実害あるものといわなければならない。所論上告人と情婦との間に生れた子は全く気の毒である、しかし、その不幸は両親の責任である。両親において十分その責を感じて出来るだけその償を為し、不幸を軽減するに努力しなければならない。子供は気の毒であるけれども、その為め被上告人の犠牲において本訴請求を是認することは出来ない。前記民法の規定は相手方に有責行為のあることを要件とするものでないことは認めるけれども、さりとて前記の様な不徳義、得手勝手の請求を許すものではない。原判決は用語において異る処があるけれども結局本判決と同趣旨に出たもので、その終局の判断は相当であり論旨は総て理由なきに帰する。(本件の如き事案は固より複雑微妙なものがあり、具体的事情を詳細に調べて決すべきもので、固より一概に論ずることは出来ない。しかし上告審は常に原審の認定した事実に基づいて判断すべきものであり、本件において原審の認定した事実によれば判断は右以外に出ない。)
よつて上告を理由なしとし民訴四〇一条、九五条、八九条に従つて主文のとおり判決する。
この判決は裁判官全員一致の意見である。
(裁判長裁判官 井上 登 裁判官 島 保 裁判官 河村又介)